「東海道旅日記」松平忠明と道頓堀

2020-8-7 UP

庄野を過ぎ、亀山に差し掛かった遠州公一行。
ここは松平忠明五万石の城下町です。
忠明公は1583年生まれ。
遠州公より4歳下で家康公の外孫でしたが、後に養子となります。
大坂の陣では大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当するなどしました。
(ちなみに遠州公も大阪の陣では家康公の旗本として参陣。)
戦後の戦功が考慮され、家康公の特命により摂津大坂藩10万石藩主、徳川大阪城の初代城主となります。忠明公は大坂城の復興よりも、大坂市街地や農村地帯の復興を優先し、天下の台所としての繁栄に不可欠な堀川の開削をはじめ、寺院や墓地を移転して市街地を拡大していきます。
大阪の名所「道頓堀」開削は、大坂の陣で一時中断していましたが、元和元年(1615)藩主となった忠明公が改めて開削を命じ、有志によって同年完成しました。そして当初「新川」「南堀河」などと呼ばれていた名称は、忠明公によって「道頓堀」と命名されました。

9月28日 訳文

2020-3-25 UP

9月28日 旅日記

28日 朝天晴。
知り合いである浜松の城主が使者をよこしてきた。
中和泉を過ぎて、天龍川の船渡を経て、浜松にさしかかる。
城主がまた遣いをよこしてきたので、案内させて城に入る。
長いこと滞在していたが、お昼頃にぱらぱらと雨が降り出した。
今日は城にお泊りくださいと城主にしきりに引き留められるのを辞して、
今切のほとりまでは進みたいと思っていることをお伝えして城をあとにした。
城主は名残を惜しんではるばる見送りにでてくれて別れた。
細雨が降り、風も静かであった。その名の通りの浜松は二本並んでいる。
汀に寄せ来る浪の音も、松の間を抜ける風の音も美しく響いている。

浪の音に はま松風の 吹合せ 
折から琴の 音をや調ぶる

霧雨のような衣が濡れるほどではない雨が降るなか、新井の渡りに到着する。
急に風が激しくなって、波も音を立てている。雨足も強くなってきた。

山風の 秋の時雨を 吹来ては 
浪もあら井の わたし舟哉

雨と浪で濡れた袖も乾かしおわらぬうちに舟からおりた。
ここで宿を取り一泊。燭の明かりが灯る頃、京都から文が届けられた。
故郷のことなどの話を聞いて過ごした。
夜も更けたが、雨風は止む気配がない。

茶の湯に見られる文様「蛍」

2017-7-21 UP

ご機嫌よろしゅうございます。

この時期羽化をはじめる蛍が夜の闇に淡い光をうつす頃

夏の夕べの美しい水と蛍の光はとても幻想的です。

蛍狩りはこの時期の季語でもありますが、

昔は身近だった風景も今では限られた場所で観られる特別な

ものとなってしまいました。

さて、遠州公の所持していた茶入に「蛍」の銘を

もつものがあります。

瀬戸春慶に分けられるこの茶入には、遠州公の書状が添い

織部の同門であった上田宗箇に宛てられたもので、この茶入は

ことのほか出来が良く、五百貫ほどの値打ちがあり、後々は

千貫にもなるのであるといった内容です。

遠州公は浅井家家臣となり、広島に居した宗箇には色々と心を

配っており、その他多くの書状が残っています。

瓢箪の形をしていますが、上部は小さめで愛らしい印象を

受けます。土見せを大きく残し、黒釉がたっぷりかかっています。

この釉薬からの連想か、挽家に遠州筆で金粉字形「蛍」と

記されています。

また、蛍と茶の湯にちなんだ落語を来月7月にご紹介する予定です。

どうぞお楽しみに

茶の湯に見られる文様「七夕」

2017-7-14 UP

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は7月7日七夕です。
七夕については昨年にもご紹介してまいりましたが、
今日は茶の湯の中の七夕を探してみたいと思います。

茶入の銘では、名物「瀬戸金華山真如堂手茶入 銘 七夕」
二代宗慶公が一年に一度取り出すべしという意味で
名付けられたと伝わっています。
機織りを仕事とした織姫にちなんで、糸巻をモチーフと
するお道具もあります。
「型物香合相撲」番付西方二段五位には「染付糸巻香合」
が挙げられています。
また、梶の葉に字を書くと字が上達するとも言われますが、
尾形乾山は「梶の葉の絵茶碗 銘 天の川」を残しています。

宗実御家元が貴美子夫人と共に和歌を梶の葉に
書きつけられた作品は、七夕が近づくと宗家道場に
毎年飾られています。

御家元 あまの川遠きわたりにあらねども
君のふなでは年にこそまで
貴美子夫人 星合の空

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織部焼茶入「不二」

2017-5-19 UP

織部焼茶入「不二」

ご機嫌よろしゅうございます。
織部焼の茶入に「不二」の銘をもつものがあります。
遠州公が

時しらぬ五月のころの色をみよ
いまもむかしも山はふしのね

との歌銘をつけています。
これは「伊勢物語」所載の

時しらぬ山は富士の嶺いつとてか
かのこまだらに雪の降るらむ

をうけての歌と考えられます。詞書には、
さ月の晦に、ふじの山の雪しろくふれるを見て
よみ侍りける
とあり、五月になっても鹿の子斑に雪が降り積もる
富士山を歌っています。
五月といっても陰暦の五月なので、現在の七月初め頃。
夏のまばゆい青空に東路を進み、駿河の国に着いた男が見た
富士の山は頂に雪をかぶり鮮明な印象です。

後窯に分類される織部「不二」は背の高いすっきりとした形で
肩から胴体にかけて富士山の姿があらわれています。
黒釉が一面にかかり、それが柿色に変化して影富士のような
模様となっています。

「桃」

2017-3-3 UP

3月 3日(金)茶の湯にみられる文様
「桃」

ご機嫌よろしゅうございます。
3月3日は「上巳の節句」
桃の節句とも言われるように、桃の花が開くと
春の到来であり、新たな命の誕生を祝う農耕的な祝祭が
現在の「雛祭り」の起源といわれています。

古来より桃は延命と魔除けの呪物として珍重され
吉祥文様としても用いられていました。
清朝の時代には一茎ニ果の双桃子、三果のものを
三千歳と呼び、さかんに使われています。
名物裂を遠州公が集めた「文龍」には「金入桃花文緞子」
の裂があります。花・実・果実が一緒に描かれており、
意匠の定型化がみられます。

また崑崙山の仙女・西王母が、三千年に一度しか実らない
不老長寿の桃の実を、漢の武帝に贈ったという伝説から、

9月12日 (月)中秋の名月

2016-9-12 UP

9月12日 (月)中秋の名月

ご機嫌よろしゅうございます。

秋の夜長
月を眺めるのにちょうど良い季節となりました。
今年の中秋の名月(十五夜)は、9月15日。
しかし、月の満ち欠けはきっちり1日単位
ではないので、中秋の名月(十五夜)=満月
とは限りません。

十五夜が満月だったのは最近でも2013年。
次回は2021年だそうです。
昨年は、中秋の名月と満月の日が1日遅れの年
でしたが、今年は9月17日が満月となります。
つまり中秋の名月から2日後が満月というわけです。
とはいえほとんどまん丸のお月様を中秋の名月で
見る事ができそうですね。

8月 15日(月)夏雲奇峰多(かうんきほうおおし)

2016-8-15 UP

8月 15日(月)夏雲奇峰多(かうんきほうおおし)

ご機嫌よろしゅうございます。

梅雨も明け、暑さの厳しい季節
空は青々として雲の白さが一層際立ちます。
さて風炉の茶席にかけられる禅語に

「夏雲奇峰多(かうんきほうおおし)」

という言葉があります。
奇峰とは、めずらしい峰の形に見える夏の入道雲
を指します。
雲を峰にたとえ、青空と変化して行く夏雲の織り成す、
夏の雄大な天の光景を歌っています。
これは中国の詩人、陶淵明による
「四時詩(しいじし)」の一部と言われています。

春水満四澤(春には雪解け水で四方の沢が満ち)
夏雲多奇峰(夏には入道雲が峰のように湧きたつ)
秋月揚明暉(秋には月が澄み渡る夜空に輝き)
冬嶺秀孤松(冬には嶺に立つ一本の松のみが高くそびえている。) 
四季の特色を一句五言で表現した句となっています。

7月 11日(月)正喜撰(しょうきせん)

2016-7-11 UP

7月 11日(月)正喜撰(しょうきせん)

太平の眠りを覚ます正喜撰

たった四杯で夜も眠れず

 

ご機嫌よろしゅうございます。

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)江戸湾の入り口である浦賀に、

アメリカの使節ペリーが黒船4隻を率いて江戸湾の入り口浦賀沖に現れました。

当時の人々は初めて目にする黒船に目を奪われたことでしょう。

正喜撰(しょうきせん)と呼ばれるお茶と蒸気船をかけて、

たった四杯のお茶で目が覚めてしまったように、

四隻の黒船を見て夜も眠れないほど動揺する人々の様子を皮肉った狂歌です。

正喜撰とは、当時の高級煎茶の代名詞として知られていました。

宇治川の近く、平安の歌人喜撰法師が隠棲したと伝えられる喜撰洞で採れた煎茶を喜撰と呼び、

その後次々に現れる粗悪品と区別するため、「正真正銘の喜撰茶」という意味で「正喜撰」の茶銘がつけられました。

7月8日 (金)能と茶の湯

2016-7-8 UP

7月8日 (金)能と茶の湯

「関寺小町」

 

ご機嫌よろしゅうございます。

昨晩は七夕

天の川はご覧になれましたでしょうか?

 

さて、先週ご紹介しました「関寺小町」は

老女物といわれるものの中でも最奥の曲と

され、なかなか上演されることはないのだそうです。

この「関寺小町」に関係の深い茶道具をご紹介します。

 

中興名物の伊部茶入「関寺」

青味を帯びた榎肌と、他面は赤味を帯びた

伊部釉とで片身替りをなしています。

茶入全体の佗しい景色を衰残の姿の小町

に重ねての銘と言われています。

舟橋某所持、細川越中守、三河岡崎藩主本多中務

に伝わり、明治初年松浦家に入りました。