松浦鎮信(まつうらしげのぶ(ちんしん))

2014-5-26 UP

5月26日 松浦鎮信(まつうらしげのぶ(ちんしん))

ご機嫌よろしゅうございます。
今日5月26日は松浦鎮信の命日です。

元和八年(1622)ー元禄十六年(1703)
肥前平戸藩主で、ちょうどこの頃に島原の乱(島原一揆)
が起こります。そのため、鎮信は長崎奉行所を守備、
また異国船の入港が長崎に限られ、その警戒にあたります。

茶は片桐石州の家老・藤林宗源に学び、
石州流鎮信(ちんしん)派を開きました。

屋敷は品川にあり、
赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良上野介のお隣さんだったといわれ
提灯を掲げて討ち入りを助けたという話も残っています。
また鎮信の茶杓に「討ち入り」という銘のものもあります

遠州公はこの鎮信の祖父に当たる同名の鎮信と親交があり
その屋敷の庭は遠州作とも伝わり、
今も中学校の校庭に、その庭が少しだけ残っています。

江戸っ子

2014-5-22 UP

5月 22日  江戸っ子

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸っ子についてお話をしたいと思います。

江戸に生まれ、江戸に暮らす
喧嘩っ早く、涙もろい、粋でいなせな性格
そんな人を江戸っ子と呼びました。

江戸っ子は五月の鯉の吹き流し

五月に空を泳ぐ鯉のぼり
そのお腹には初夏の爽やかな風が吹き抜けていきます。

口先ばかり  腸(はらわた)はなし

と続くこの言葉は
江戸っ子の気質を表す句として知られています。

江戸っ子は言葉づかいは荒いが,
腹に何もなく気持ちはさっぱりしているということ。
また,江戸っ子は口先ばかりで内容がない
という意味にも使われるそうです。

小説では夏目漱石の「坊ちゃん」
映画では「男はついらいよ」「一心太郎」などが
江戸っ子の主人公として描かれています。

遠州公の茶の湯

2014-5-18 UP

5月 18日遠州公の茶の湯

ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州公が茶の湯を始めたころの
お話を。

十五歳頃に大徳寺春屋宗園禅師に参禅し、
修行を積みながら
古田織部のもとで茶の湯を本格的に学んで行きます。

遠州公が十八歳の時に
「洞水門(どうすいもん)」を考案しました。
これは現在水琴窟と呼ばれているものの原形と言われています。

茶室に入る前には手と口を
蹲(つくばい)で清めます。

当時の蹲は水はけが悪く、
何度か使用すると、周りに水が溜まってしまい
大変使いにくいものでした。

これを若干十八歳の遠州公が
この蹲の地下に瓶を仕込み、
水滴が瓶の中に落ちる時に、水はけをよくし、
美しい反響音がする仕組みを考案しました。

遠州公の茶の湯の師であった
古田織部も遠州公の才に大変驚いたと
言われています。

村田珠光

2014-5-15 UP

5月15日 村田珠光(むらたしゅこう)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日5月15日は村田珠光の命日です。

珠光は応永三十年(1423)に生まれ、文亀二年(1502)の
5月15日に亡くなったといわれています。

少年のころ奈良の称名寺に入り出家
その後30歳の頃に大徳寺の一休和尚に参禅します。

月も雲間のなきは嫌にて候
藁屋に名馬繋ぎたるがよし
など
「冷え枯るる」精神を茶の湯に吹き込み
侘び茶の創始ともいわれています。

それまでは部屋に茶道具を飾り、別の部屋でお茶を点てて
運んでいた茶室が、珠光によって
主客同座となり、床の間に墨跡を掛け、
禅の精神で茶を喫する場に変わっていきます。

珠光という号は剃髪し僧となってからの号なので
俗名である村田と並べて呼ぶのは本来おかしいのですが
現在では、村田珠光と呼ぶのが通例となっています。

初風炉(しょぶろ)

2014-5-1 UP

5月1日  初風炉(しょぶろ)

ご機嫌よろしゅうございます。

茶道ではいよいよ季節が夏へかわり 茶室の設えも、爽やかな季節に向けて 準備します。

寒い冬には、お客様に近い炉(ろ)を使って暖をとり 大きな釜で湯を沸かしました。 5月に入り暖かい季節になると、なるべく火の気をお客様から 遠ざけるため冬の間使用した炉に蓋をして 風炉を壁付きの方へ置きます。

この風炉の中にも小さな宇宙が広がります。  初夏・盛夏・晩秋にそれぞれ真・行・草と呼ばれる灰型に 形を変えて5月から10月に渡る季節の移り変わりを表現します。

「父は家元」の映画の中で 安藤執事長が灰型を作るシーンがありました。  丹精こめて手入れした灰は決して押さえずに、 その一粒一粒を  やはり自分で作った灰箒で丁寧になでて仕上げていきます。  灰が自分の思い通りに動かせるようになるまでには 長い年月を要します。

遠州流の灰は湿し灰(しめしばい)とよばれるもので 使うたびに湿らせて振るいにかけ、湿り具合を調整して保管しています。  ご宗家の灰は、遠州公の時代から繰り返し使われ、  手入れされてきた歴史ある灰で 振るう者にも、一粒とて無駄にせぬようにと 振るい方と共に教えられてきました。  直門のお稽古ではその遠州公以来の灰でお稽古しており  なんとも身が引き締まります。

遠州公の時代には26通りの型があったそうです。

藤波(ふじなみ)

2014-4-26 UP

4月  26日  遠州公の愛した茶入「藤波(ふじなみ)」

ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「藤浪」
をご紹介します。

この茶入の釉薬のかかった景色が
藤の花の垂れ下がるようすに見られることから

新古今集 春歌の

かくてこそ みまくほしけれ 万代(よろずよ)を
かけて忍べる 藤波の花

の歌から命銘したといわれています。
箱の裏には遠州公がこの歌をしたためた小色紙が
貼り付けられています。

挽家(ひきや)とよばれる茶入の入れ物に施された意匠は、
紫檀(したん)に藤の花が咲く模様を全面に彫り、
沈金を施していて大変珍しいものです。

藤の花は二季草(ふたきぐさ)の名もあるように
春から夏へ、ふたつの季節にまたがって咲き
和歌でも古今集等、春・夏の部ともにその名が見られる花です。

前押せ

2014-4-25 UP

4月25日 前押(まえおせ)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は遠州公の好みの形である前押について
お話ししたいと思います。

茶碗や水指などの道具に見られる意匠です。
正面に手で押したわずかなへこみを作り
アクセントとしています。ここが正面ですよと
お客様にわかっていただけるように
との心配りからついています。

遠州流では濃茶の後、数名のお客様に次々と
薄茶を点てる場合に重ね茶碗というものを使用します。
同じ出生(窯)のもので、天目型の成りに
正面をわずかにへこませた前押の形
のものを大小重ねて使用する茶碗です。

遠州公は当初三島茶碗などの平茶碗をお客様の人数分重ねて
点法したようですが、
それを国焼きに改めて考案しました。

切形(きりがた)と呼ばれる型紙をもとに
遠州公の作為による前押茶碗を、八世宗中公が作らせた
高取の重ね茶碗も今に伝わっています。

この重茶碗というお点法は、
遠州流特有のお点法です。

梅若(うめわか)の涙雨(なみだあめ)

2014-4-15 UP

4月15日  梅若(うめわか)の涙雨(なみだあめ)

旧暦3月15日の江戸は
雨になることが多かったといいます。

この日に降る雨を
「梅若の涙雨」と言っていました。

謡曲「隅田川」の梅若丸は、
大変頭の良い稚児でしたが、寺院内での争いに悩み
京都の寺をこっそり抜け出したところ、
人買いに誘拐されてしまいます。
東国へ連れていかれる途中に病気になり
隅田川のほとりに捨てられます。
それを哀れんだ土地の人達の、手当ての甲斐も虚しく
梅若は3月15日に息を引き取ります。

たずねきて問はば答えよ都鳥
すみだ川原の露と消えぬと

我が子の死を知った母はこの地で剃髪し、妙亀尼と名乗り
庵を立てて念仏三昧の日々を送ります。
それから3年後、池の水に映る我が子の姿をみてそのまま飛び込み
死んでしまったといいます。

現在も隅田川のほとりには梅若を祀る木母寺に
梅若塚が建てられています。

遠州公の茶の湯のはじめ

2014-4-13 UP

4月13日  遠州公の茶の湯はじめ

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は大河ドラマ「軍師官兵衛」の時代
当時の遠州公についてのお話しをさせていただきます。

文禄四年(1595)
秀長の後仕えた羽柴秀保が亡くなり、
大和大納言家はここに滅びます。
遠州公の父、新介正次は秀吉の直参となり
伏見に居を移します。

父に伴い移動したこの伏見での
古田織部との出会いが遠州公の人生を、
決定づけるものとなりました。

文禄二年(1593)
遠州公15歳
この頃に遠州公は古田織部に茶道を習いだしたとされています。
古田織部は利休亡き後、
茶の湯の第一人者として活躍していました。

14歳の時にはすでに
松屋の「鷺の絵」を茶会にて拝見していたことが
記録でわかっています。
この「鷺の絵」についてはまた後日お話したいと思います。

官兵衛

2014-3-30 UP

3月30日  官兵衛  天正19年の出来事

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は日曜日。
大河ドラマ官兵衛の時代の
遠州公のお話しを。

天正十九年(1581)
この年は、茶の湯にとっても
遠州公にとってもお大きな意味をもつ年でした。

1月22日に 秀吉の弟・秀長が亡くなります。
そして2月28日  千利休が切腹。
8月には士農工商が定められ、
身分制度が出来上がるのと同時に
下克上の時代に終わりを告げることとなります。

主君秀長が亡くなった翌年は遠州公の母
(磯野丹波守員正娘)が亡くなり
遠州公にとっても
苦難のときであったと思われます。

文禄22年15歳の遠州公は
その悲しみを乗り越えて、
大徳寺の春屋宗園禅師に参禅します。
茶道を古田織部に習うのもこの時期です。