2016-11-28 UP

11月28日(月)木枯らし

ご機嫌よろしゅうございます。
寒さも次第に厳しくなり、木々の色も鮮やかに変化してきました。
はらはらと落ちる木の葉を、木枯らしが軽やかに舞わせます。
その風に乗って、黄色く染まった銀杏の葉が
宗家研修道場にも届いています。

源太萬永堂製 銘 木枯らし
kasi

11月 28日(月)冬籠り

2016-11-28 UP

11月 28日(月)冬籠り

雪ふれば冬ごもりせる草も木も
春に知られぬ花ぞさきける

ご機嫌よろしゅうございます。
師走ももうすぐそこ
場所によっては雪が舞っていることでしょう。
先の歌は古今集所載の紀貫之の歌です。

雪が降ると、冬ごもりしている草も木も、
春に気づかれない花が咲いている。

草木に積もった雪を「春にしられぬ花」と表現し、

桜散る木の下風は寒からで
空に知られぬ雪ぞ降りける

の和歌の「空にしられぬ雪」の表現と対称をなしています。
貫之の好んだ理知的な趣向です。

遠州公作の共筒茶杓にはこの歌を踏まえて

冬こもり空に知られぬ花なれや
よしののおくのゆきの夕くれ
の歌銘があります。

11月18日(金)能と茶の湯

2016-11-18 UP

11月18日(金)能と茶の湯
「六浦(むつら)」

ご機嫌よろしゅうございます。

鮮やかに色変わりだす木々の葉、
風に吹かれて散ちる姿は、絵のような
美しさです。

さて、紅葉を題材にした能には「六浦」があります。

六浦の称名寺(神奈川県金沢)を訪れた都の僧が、
あたりの木々が紅葉する中で一本だけ紅葉していない
楓があることに気付きます。
そこへ現れた里の女に僧が尋ねると、
昔、冷泉為相卿が他の木に先駆けて紅葉する楓
を見て、

いかにして此一本にしぐれけん
山に先立つ庭のもみぢ葉

と詠んだところ、その楓はそれを名誉と感じ
この上は身を退くのが正しい道であるとして、
以降は紅葉することをやめたと語ります。
そして自分こそ、その楓の精であると明かして
消え失せます。
そして夜、ふたたび現れて四季ごとの草木の
移ろいを語り、月の下、舞を舞い
去っていくのでした。

11月 14日(月)石臼

2016-11-14 UP

11月 14日(月)石臼

ご機嫌よろしゅうございます。

茶の湯の世界では、11月は炉開きに口切と続き
お正月にあたるおめでたい月にあたります。

炉開きと口切りについては昨年のメルマガで
ご紹介しましたので、そちらもご参照下さい。
口切で取り出した新しい茶葉は石臼で
挽いていきます。
彦根藩主であった井伊直弼が
「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)」
において、
「茶を挽くは大事也
挽きもあらくては如何ほどの名器を出し
飾りても、実意あらず」
と書いているように、石臼は茶の味を左右する
大変重要な道具です。
にもかかわらず、石臼についての形や機能
などの資料はあまり残っていないそうで、
なぜ左回しなのか、それ自体についても研究は
あまりなされていないそうです。

11月 11日(金)能と茶の湯

2016-11-11 UP

11月 11日(金)能と茶の湯
「筒井筒」

ご機嫌よろしゅうございます。

先週は能「井筒」をご紹介しました。
今日は高麗茶碗の中でも第一の格を持つ
井戸茶碗の中でも昔より特に声価の高い名物手井戸
「筒井筒」(重文)の茶碗をご紹介します。

「筒井筒」の銘は、もと筒井順慶が所持し、
茶碗が深めで高台が高いところから「筒井の筒茶碗」
といわれたと伝えられています。
筒井筒は順慶が秀吉に献上し秘蔵されていました。
しかしある日の茶会で近侍の小姓が誤って取り落とし、
5つに割ってしまいます。
激怒した秀吉が小姓を手打にしようとしたところ、
茶会に招かれていた細川幽斎が、

筒井筒五つにわれし井戸茶碗
とがをばわれに負ひにけらしな

と詠んだことで、秀吉の機嫌もたちまち直り
小姓は一命を取り留めた逸話が残っています。

細川幽斎は古今伝授を受けた歌道の大家で、茶の湯
や能にも非常によく通じた武将でした。

ちなみに秀吉も大変能を愛したことは以前にも
ご紹介しましたが、秀吉四十七番の所演の記録のうち
この「井筒」を三番舞っています。

11月7日(月)宗家道場の床の間拝見

2016-11-7 UP

11月7日(月)宗家道場の床の間拝見
ご機嫌よろしゅうございます。
11月に入り、炉を開きの季節がいよいよやってきました。 宗家の床の間も、無事炉開きを迎えることができた 祝いの気持ちをこめて飾られています。
床 紅心宗慶宗匠筆 本来無一物
花 白玉椿 万作の照葉
花入 伊賀 耳付

の間の掛け物「本来無一物」は 中国禅宗史上の大立物の六祖慧能が五祖弘忍から印可され、
その法を嗣ぐ機縁となった偈頌「菩提本樹無し、
明鏡も亦台に非ず、本来無一物、何れの所にか塵埃を惹かん」
(悟りという樹も鏡のような心もありはしない。
もともと何もないのだから、どこに塵埃がたまり、
何を払拭しようというのか)の一句で、禅とりわけ
南宗禅の真髄を端的直截に道破した一語です。

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「筒井」

2016-11-6 UP

11月 6日(日)能と茶の湯
「筒井」

ご機嫌よろしゅうございます。

季節は秋から冬へ、寂寥のおもいがつのる頃。
今日はそんな哀切の情を美しく表現した
お能「井筒」のお話をご紹介します。

ある秋の日、諸国を旅する僧が
奈良から初瀬へ行く途中に、
在原業平建立と伝えられる在原寺に立ち寄りました。
僧が在原業平とその妻の冥福を祈っていると、
さみしげな里の女が現れます。
僧の問いに、女は在原業平と紀有常の娘の
恋物語を語ります。

筒井筒井筒にかけしまろがたけ
生けにけらしな妹見ざるまに

比べ来し振り分髪も肩過ぎぬ
君ならずして誰か上ぐべき

その昔井戸のそばで遊び戯れていた
幼馴染の二人が恋をし夫婦になった。
女は自分がその有常の娘であると告げて、
井筒の陰に姿を消します。
夜も更ける頃、僧が仮寝をしていると、
夢の中に井筒の女の霊が現れます。
女の霊は業平の形見の冠装束をを身につけ、
業平を恋い慕いながら舞い、井戸の水に自らの姿を映し、
業平の面影を忍ぶのでした。
やがてしらじらと夜が明け、井筒の女は姿を消し、
僧も夢から覚めるのでした。

業平を想いながら舞い、在りし日を回想する幻想的な能「筒井」。
すすきを付けた井戸の作り物が秋の侘しさを際立たせます。