5月 11日 (月) 初音(はつね)

2015-5-11 UP

5月 11日 (月) 初音(はつね)

きくたびに めづらしければ ほととぎす

いつも初音の 心地こそすれ

ご機嫌よろしゅうございます。
初夏の日差しの感じられる清々しい季節
となりました。
この頃、眩い青葉の間からほととぎすの
かわいい鳴き声が聞こえてきます。

ほととぎすは夏に飛来するため、
夏の訪れを知らせる鳥として平安時代から
愛され、その季節に初めて鳴く初音を聞く
ことが流行したそうです。

冒頭の和歌はその初音のように、いつ聞いても珍しく嬉しい
香りがするという意味の遠州公の歌です。
香は香りを聞くと表現します。

遠州公が所持した名香の中に、この「初音」の
銘を持ち、一木四銘といわれ特に有名な
香木があります。

長崎から南方に一本の香木が送られてきた折、
その香木を求めて伊達政宗・細川三斎・稲葉美濃守
そして遠州公が使者を送り、争奪戦となります。
香木そのものが貴重であった当時、非常に高価であったことも
あって四家の共同入札とすることに…。
長崎奉行の立会いのもと、四家の使者が四つに
分けられた香木をくじで取り分け、
細川家は白菊、小堀家は初音、稲葉家は藤袴、
伊達家では芝舟、とそれぞれに歌銘がつきました。

場所によって香りにも差がありますが、焚いてみないと
わかりません。後に伊達家の芝舟がやや劣ることが
わかり、この使者が主へ申訳に切腹して果てたという逸話が残っています

5月 8日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-5-8 UP

5月  8日 (金)遠州公所縁の地を巡って
京都三条の屋敷

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の屋敷についてご紹介します。

遠州公三十七歳の折、弟の治左衛門正行が、
三十三歳で遠州公の京都の屋敷で亡くなっています。

この屋敷は詳しくはわかっていませんが、
以前藤堂高虎の所有であったものを
遠州公が最初の作事奉行になった
後陽成院の御所を造営する慶長11年頃に
遠州公に譲られたと言われています。

京都の三条に位置し、遠州公が居住するように
なってから徐々に改築が行われ
四畳半台目下座床の席が作られていたようです。

伏見の六地蔵からでは不便なことから、
岳父から贈られたのではないかと思われます。

これまでの研究では、「寛永初之日記」に記された
二十四回に渡る遠州公の茶会は
伏見奉行屋敷の披露茶会と位置付けられてきましたが、
深谷信子氏は、寛永三年の将軍二条城行幸の際に行われた
ものとし、二条城にほど近いこの三条の屋敷で
行われた茶会ではないかとしています。

この二条城ついてはまた後日ご紹介します。

5月 6日 (水)風炉の花

2015-5-6 UP

5月 6日 (水)

風炉の花

ご機嫌よろしゅうございます。 風炉の季節、山の草花や樹々も いきいきと緑を増し始めます。 その自然の様子をうつすように、床の間の花も 椿から草花に変わり、花入は籠など 軽快なものも使用して楽しみます。 今日はお点法を離れて、風炉の花についてご紹介します。 爽やかな中にも季節の変わり目である初風炉の 床の間に格を感じられるものに 牡丹や大山蓮華があります。 牡丹は花の王であり、国に二王なしと言われるように 一輪で用い、何色にも染まらぬという意味もあり 白が好まれました。江戸時代には全国の大名に 茶の湯が親しまれ、牡丹一輪の心は儒教の心を 表すとされました。 真っ白な花弁に赤いしべが鮮やかに 映る大山蓮華は、深山に咲くため入手困難だったからか 松屋や天王寺屋などの古い会記には その名を記すものがありません。 一番古いものとしては松平不昧が 幕末に遠州公作の竹花入に入れています。 その茶会の数年後、やはり不昧が竹の花入に入れていますが この二回の記録以外には今のところ見当たりません。 近代に至り、栽培も始まったこと、また流通も発達したことも 手伝って自然と風炉の花として 重用されるようになっていったようです。

5月 4日 (月) 花橘(はなたちばな)

2015-5-4 UP

5月 4日 (月) 花橘(はなたちばな)

むかしをば 花橘のなかりせば

何につけてか 思ひ出まし

(「後拾遺和歌集」 藤原高遠)

花橘がもしなかったならば、何を手がかりに、
昔を思い出せばよいのか、いや思い出せない。

この歌の銘のついた茶碗があります。
遠州蔵帳所載の信楽茶碗です。
遠州公の切型をもとに作られたと伝えられ
いわゆる筆洗形をしており、
長辺二方に浅い切り込みをつけ
高台は三方に切り込みをつけた割高台風の茶碗です。

ほのかに香る花橘の香りが、昔の想い人を
思い出させる。
橘は蜜柑の仲間で、「常世の国」の不老長寿
の実のなる瑞祥の木とされていました。
この橘の香りと懐旧の念を定着させた歌が

さつき待つ花橘の香かげば

むかしの人の袖の香ぞする
(「古今集」読み人知らず)

でした。その香りを嗅いだ途端、無意識に人を
過去のある場面に引き戻す。
そんな甘酸っぱい切なさの感じられる橘の歌です。

5月 1日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-5-1 UP

5月 1日 (金)遠州公所縁の地を巡って
備中と遠州公

ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公が備中で奉行を務めたのは
およそ十三年間。
その間まちづくりにも深く関わったと言われています。

松山城が荒廃していたため、父・新介正次と共に遠州公は
頼久寺を居とします。
この頼久寺の庭園は、遠州公が初めて作った庭園と
言われています。
愛宕山(あたごやま)を借景(しゃっけい)に、
砂の波紋で海洋を表現し、
鶴亀二島の蓬莱石組、鶴島の三尊石組を配しています。
サツキで大海の波を表す大胆な大刈込みは、
遠州公独特のものです。

またこの地の特産品にも遠州公と関係が

古くから紙の生産が盛んであった備中。
特に戦国時代から朝廷や幕府に檀紙を納入する柳井氏
を指導・保護し、備中特産の紙の流通に大きく関わっていました。
また柳井氏は、遠州公の指導で茶の湯で使用する
「釜敷紙」生産したとも言われています。

遠州公がこの地に伝えたとされる「ゆべし」
もともとは戦の保存食であったものでしたが、
もち米に備中名産の柚子を練りこんだ和菓子に姿を
変えました。
現在でもこの地の特産品として根付いているそうです。

4月29日(水)遠州流茶道の点法

2015-4-29 UP

4月29日(水)遠州流茶道の点法
風炉の設え

ご機嫌よろしゅうございます。

4月も終わりに近づき、5月になると茶の湯の設えが風炉に変わる
季節となります。
炉に塞ぎをして、風炉を壁付きの方へ置き、
火気をお客様から遠ざけます。

炭の寸法も炉に比べて細く短いものを使用し、
風炉は季節の変化に伴って
土風炉・唐銅の前欠・切合せ・鉄風炉
と使い分けていきます。

灰型も昨年ご紹介しましたように、
季節や用いる風炉、また祝儀等によって
古くは三十六種ありました。このうち代表的な
三種を用いるようになっています。

窯は炉用の大ぶりなものから風炉にかける
小ぶりのものにかえ、
柄杓も風炉用の小さめの合のものに。
道具組も初夏の清々しさが感じられる設えを意識します。

4月 27日 (月) 山吹(やまぶき)

2015-4-27 UP

4月 27日 (月) 山吹(やまぶき)

ご機嫌よろしゅうございます。

暖かい日差しの中、ふと街をあるいていると
黄色く可愛らしい花が幾つも咲き、
私たちの目を楽しませてくれます。

山吹はバラ科の木で、山峡の渓流沿いに黄金色の花を
咲かせる落葉樹です。民家にも植えられることの多い
比較的身近な植物です。

六玉川と呼ばれる名所のうち、宇治・京田辺には
井出の玉川と呼ばれる、山吹の名所があります。
奈良時代に橘諸兄(たちばなのもろえ)が
ヤマブキを植えたことから名所となり、
多くの歌人が競って歌を詠んできた場所です。

さて、この愛らしい山吹の花の黄色を想起して、
遠州公が続後撰集の定家の歌から
銘とした茶入があります。

山吹の花にせかる  思河
いろの干しほはしたに染めつつ
定家

この「思河」茶入は下に赤い色、上に黄色の釉薬が
かかっており、山吹の黄色にちなんで
名づけられました。

4月 24日 (金)遠州公所縁の地を巡って

2015-4-24 UP

4月 24日 (金)遠州公所縁の地を巡って
備中と遠州公

ご機嫌よろしゅうございます。

関ヶ原の戦いで家康の旗本として
加わった遠州公の父、新介正次は
その功により1万石の加増を受け備中松山城を
あずかることになります。

そして慶長九年(1604)
新介正次が亡くなってからも
遠州公が引き続き備中を預かることになります。
紙や鉄の生産の盛んなこの地で
若き時代、代官として活躍した遠州公。

その遠州公の影響は今でもこの街に見ることができます。
今日は備中松山城についてご紹介します。

標高430mにある備中松山城は、
現存天守を持つ山城としては日本一高いお城です。
もとは山陰と山陽の要所として、多くの戦乱の舞台となり
戦の要としての城の役割をしてきました。
遠州公が父・新介正次と共に入国した際には
城は長い戦乱により、城郭も建物も未だ
修復されず、石垣や土塁が残るのみで荒廃していました。
そして泰平の世の到来。
遠州公は城の修復を行い、
備中松山のシンボルとしての優美な山城に姿を変えました。
(後に松山城主となる水谷勝宗も城の修復を行って
います。)

白い漆喰塗りの壁と黒い腰板の美しい天守は、
国の重要文化財にも指定されています。

また現在、御根小屋跡は県立高梁高等学校となっており、
県の史跡に指定されています。
御根小屋とは、城がけわしい山項に築かれた際、
普段の居城となった場所のことを指します。

その建物を城壁に囲まれ、遠州公の手がけたといわれる
心字池を囲む庭に当時のおもかげを忍ぶことが出来ます。
また学校内には茶室が建てられ、多くの生徒が
ここで茶の湯を学んでいます。

4月 22日 (水)遠州流茶道の点法

2015-4-22 UP

4月 22日 (水)遠州流茶道の点法
「袋茶碗(ふくろちゃわん)」

ご機嫌よろしゅうございます。

3月25日にご紹介しました茶碗披きのお点法で
披露した茶碗に、亭主がその茶碗の格に応じて
裂を選んで仕服を作ったり、またお客様から
名物裂などを贈られたときに、その裂で仕服を
着せたりします。

そのため、お茶碗を披露した際と同じお客様を
改めてお招きし、今度は茶碗ではなく袋を
ご覧に入れるお点法が袋茶碗です。

茶道具に添えられる仕服の紐結び、
もともとは茶の湯が武将の戦略の一つになっていた時代、
高い身分の方に茶を差し上げる役の間で
主君の暗殺を防ぐため、自分一人の心覚えの封印結びを
したのがはじまりといわれています。
その結び方は文箱の封じ結びと同じように
紐が解かれているとすぐにわかるようになっており
教えることも習うこともない
幻の紐結びとされていたそうです。
戦国時代が終わると、このような封印結びとしての
意味合いも徐々に薄れ、花鳥風月に結びを託すようになったと
されています。(「茶の結び緒 」 淡交社)

遠州流茶道の袋茶碗の結び方は飾り付けに十三種類、
しまい込みに二種類あり、
季節やその裂の状態に応じて結び方を変えています。

4月 20日 (月) 苺(いちご)の旬

2015-4-20 UP

4月 20日 (月) 苺(いちご)の旬

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は苺について
ご紹介したいと思います。

ちょっと意外に思われるかもしれませんが、
いちごの旬は4月。
ただし、これは露地物の話で、
現在はハウス栽培が盛んで、
出荷量が多いのは12月後半から2月にかけてです。
特に12月はクリスマスケーキのため需要が高く、
促成栽培が行なわれています。
スーパーでも、少し寒くなった頃に
店頭に苺が並ぶのを見ると、今年もいよいよ数ヶ月か
などと思ったりします。

消費者の要望に応えて、苺も早め早めに作られる
ようになった、ということのようです。

現在では数多くのブランドがあり、栃木の「とちおとめ」や、
福岡の「あまおう」、静岡の「章姫」などが有名で、
白い苺なるものもお目見えしました。

とは言え今でも春の露地物の苺は安く、
しかも甘さが強く、おいしい物が多いようです。
しかし、気温が高いせいかいたみやすいとのこと。

旬のお味が気になる方、
今日は苺を召し上がってみてはいかがでしょうか?